『おりがみ広場』 ホームへ

折り紙コラム


折り紙についての雑多なことを気ままに書きました。
 

     ・折り紙との出会い
     ・折り紙とは何だろうか? (勝手に折り紙を定義してみた)
     ・「折りやすい」素材としての紙
     ・折鶴の解剖 (折鶴の人気の秘密に迫ってみる)


 折り紙との出会い

私が折り紙と出会ったのは、大学生の時30年近く前だ。たまたま、書店で笠原邦彦編「千羽折鶴形」(すばる書房)という、江戸時代の連鶴の折り方の解説本の再現本を手にしたのがきっかけだ。当時、やっこさんやだましぶねくらいしか知らなかった私は、連鶴という新しい世界に驚いた。江戸時代というものの豊かさにも驚いたが...

折鶴さえ折れれば、充分な注意さえ払えば、さまざまな形の連鶴が折れることを知って嬉しくなり、その本の中のかなりの作品を折った。周りに先輩がいなかったため、紙については困った。連鶴は大きな紙を必要とするので、普通のイロガミでは限界がある。また、鶴同士が細い部分でつながるため、強い紙が要る。私は、書道用の半紙を切って使っていた。

同じシリーズで「超難解マニア向き作品集」という、創作折り紙を集めた本を買って折り始めた。しかし、これは、全く歯がたたなかった。折り図で分からないところを尋ねる人もいなかったし、何より、私には折り工程が難しすぎた。

今から思えば、当時、創作折り紙は今ほどポピュラーではなく、折りの技法も未発達だった。リアルな形を目指して角をたくさん出そうとすると、いきおい、非常に複雑で紙に負担のかかる折り方をせざるを得なかった。紙も重なって厚くなり、半紙で折ってもきびしいという状況だ。私は、ほとんどの作品を完成できなかった。

私はここで挫折した。他の折り紙の本を探すこともしなかったため、創作折り紙=難しいもの、との思いが定着してしまった。私は創作折り紙を敬遠し、これらの本は、本棚の片隅で25年以上、息子に再発見されるまで、開かれることなく静かに時を過ごすことになった。当時、もう少し折れそうな創作折り紙に出会っていたら、その後の人生も少しは変わっていただろうな...

その後、2回、プロフィールにも書いたように折り紙との出会いがあった。米国出張の時1988年と、帰国後季刊「をる」発刊の時だ。けれども、どちらも興味は長く続かなかった。「をる」に掲載の折り図をみても、自分で折ってみる気持ちは起こらなかった。「をる」も息子による再発見を待たなければならなかった。

そして今、連鶴から数えて4回目の出会いである。息子が成長し、小学4年1997年のころ、ふとしたきっかけから猛烈な勢いで折り紙を折り始めた。息子は、折り紙を折らない日は病気の日くらいという入れ込み様で、折り紙が部屋中に散乱し、あるものは部屋の隅でほこりをかぶり、あるものは段ボールの中でつぶれ、という状況になった。出来のいいものは、ボードに飾ったりもしたが、とてもスペースが足りなくなった。身近な本は折りつくし、次々と新しい本を欲しがったので、手当たり次第に買い与えてきた。すでに7年、息子の折り紙への興味は、全く衰えることがない。

私は、ずっと見ている立場だったが、息子の作品をHPで公開してやることを思い立ち、2003年にこのサイト制作・公開に至った。実は、自分で折り始めたのは、つい最近である。息子の折った多くの作品を目にしているので、作品を見る目も肥えてきた。今回は先輩(息子)がいるので、行き詰っても教えを請うことが簡単にできる。理想的な環境の中で、気に入った作品をぼつぼつ折って楽しんでいる。

ごく最近になって、町の児童館で「折り紙ボランティア」として子供らに折り紙を教え始めた。難しいものを教えるわけではないから、気楽である。それに、易しい作品であっても、真剣に取り組めば新しい発見があるものだ。子供の来ない暇な時間には、自分のお気に入りをゆっくり折る。充実した時間である。

HPも多くの方に見ていただいて、制作にも張り合いがある。HPを通じて、新しい折り紙仲間とのWEB上での交流もできてきた。もともとデザイン的なことは好きな方だし、パソコンも得意なので、制作にもついつい力が入る。まことに、いい趣味を見つけたものである。

唯一の(そして、深刻な)不具合は、私がパソコンの前に座る時間が長くなるのに比例して、妻の眉間のしわが険しくなることだが...


トップへ

 「折り紙」とは何だろうか?(勝手に、折り紙を定義してみた)

自分なりに「折り紙の定義」について考えてみた。すでにどこかで、「考え済み」で「言わずもがな」のことも多いと思うけど、そういったことはあまり気にせず(つまり、きちんと調べず)に、思いつくままに書いてみたい。

私は、とりあえず(ということは、いつでも変えたり取り下げたりする、という意味だが)できるだけ理屈っぽく、

『折り紙とは、一連の工程で紙を折り曲げて、おもに具象的なモノに似せることを目指す、工芸的な遊びである』

と定義してみたい。

第1に、一連の工程で紙を折り曲げること。「折り紙」の名前のとおり、紙を折り曲げることが折り紙の本質の大きな部分であることは、論を待たないだろう。私はこれに、「一連の工程で」ということを付け加えたい。折り紙には折り方が大事だ。その作品が一回だけのものでなく、一定の折り手順に従えば何回でも(時と場所と人が違っても)同じものが折れる、ということが必要だ。むずかしく言えば、再現性があるということ。

つまり、ひと通りでないにせよ、折り手順がそれなりに固定していること。創作折り紙の新作を発表する場合に、折り方を示さずに完成形だけを示している場合がある。それを皆が「折り紙作品」として認める背後には、無意識的にせよ、「それなりに固定した一連の折り手順がある」という前提がある。偶然に任せて、紙をランダムに折って面白い形ができたとしても、それは「折り紙」ではない。「一連の工程で紙を折り曲げる」ということで出来るものでないから、つまり「再現性がない」からである。

再現性があることによって、折り紙作品は、創作者個人に限定されず、万人によって楽しめるものになる。非常に大切なポイントである。余談だが、現在、世界的に折り図の約束事がそれなりに固定し、言語が違っても折り図さえあれば、作品が折れるようになった。いわゆる折り記号の「デファクトスタンダード化」である(これには、我が敬愛する吉澤章さんの貢献が大きいと聞いている)。私の定義に従えば、これは「一連の工程」がより明確化したことを意味し、折り紙がより折り紙らしくなったことになる。

第2に、やはり、折り紙は何かのモノに似せて作ることが本質だと思う。確かに例外的に、いくつか抽象的な形を目指した作品がある。例えば、吉澤章さんの作品とか、北條高司さんのものとかを私は知っている。これらが折り紙ではない、というのではないが、あくまで例外的な作品と考える。作者自身も、これらが例外だと感じているのではないか。

思考実験として、もっぱら抽象的な折り紙を作る折り紙作家というのがありえるだろうか?私は「無い」と答えておきたい。そういう人が居たとしてそれは、紙を素材にして抽象形体を作る彫刻家・造形作家・デザイナーであろう。「折り紙作家」ではない。

こう書いてみて不備に気づいた。ユニット折り紙で幾何学的だが抽象的な作品を作る場合がある。イメージとしては、ユニットを継ぎ足していって、立体が成長していくような場合だ。布施知子さんに「成長する立体」という本がある。これは立体の変化の面白さだから、できあがる形は抽象的だ。これも立派な折り紙。それで、「おもに具象的な」と、ぼかしておいた。

第3に、工芸的な遊び、の部分。単なる「工芸」でも「遊び」でもなく、二つをつなげて「工芸的な遊び」としたのには訳がある。「工芸=美的な価値をそなえた実用品を作ること(広辞苑)」である。折り紙は、美しいものを目指しはするが、実用品ではない。ほとんどが非実用品(ここで実用折り紙もあるなと思い「ほとんど」と付けた)である。ただ、単に「遊び」とすると「美」の側面が抜け落ちるので、「工芸的な」を付けた。

それでは、芸術・アートとどう違うのか。こちらも美を求め非実用である。「芸術=一定の材料・技術・様式を駆使して、美的価値を創造・表現しようとする人間の活動(広辞苑)」という定義からすると、これに含まれるように見える。けれども、私は「折り紙」を「芸術」と呼ぶことはそぐわない気がする。なぜだろうか?

芸術は高尚だが、折り紙は高尚でないからか?いやいや、現実をよく見れば、芸術が高尚だとも、折り紙が高尚でないとも、単純に言えることではない。私にはそれが本質的な違いとは思えない。では、何だろうか... 難しい問題ではある。

ここで私は、もう一度「再現性」という視点を取り入れたい。芸術は、作家の個性を何よりも大切にする。簡単に他人にまねできるような作品であれば、いかに美しくとも、それを「偉大な芸術作品」とは呼ばない。芸術には、一回性・唯一性というのが大事である。ひるがえって、折り紙においては事情は逆で、美しい作品が再現よく作れることに価値がある。折り紙の創作というのは、最終的な完成形を創り出すということと同時に、そこに至る折り手順を考案するということが伴っている。ということは、必然的に、コピー品が作れる、ということである。この点では、やはり工芸品に似ている。それでは、折り紙は「非実用的な工芸品」なのであろうか?

私があえて「遊び」ということを入れたのは、折る工程そのものを楽しむ、という点を表現したかったからだ。折り紙の目的は、完成形を得ることだけにあるのではない。もちろん、完成しなければ折り紙作品も無いわけだが、折り紙を折る過程そのものも大事な要素である。例えば、きれいな完成品がどこかの店で売っていてそれを買ってきて自分の部屋に飾る、とする。これは折り紙作品を、限りなく「工芸品」に近いものとして扱う行為だ。けれども、これは本当の意味での「折り紙」になってはいない。何故なら、自分で折って楽しむ、という遊びの要素が入っていないからである。

だいぶん議論が乱れてしまったが、折り紙が、単なる「工芸」でも「遊び」でも「芸術」でもなく、「工芸的な要素の強い遊び」であることを説明しようとした。

というわけで、最後にもう一度。『折り紙とは、一連の工程で紙を折り曲げて、おもに具象的なモノに似せることを目指す、工芸的な遊びである』。(以上の説明そのものが、全く「非工芸的な言葉の遊び」になってしまったかもしれない(笑)。)


トップへ

 「折りやすい」素材としての紙

「折り・紙」というふうに、「折るという行為」と「紙という素材」が結びついた理由を考えてみたい。折る対象として、何故、紙が選ばれたのか?もっと簡単にいえば、どうして紙は折りやすいのか?ということである。

「紙が柔らかいから」という答えでは、私は満足できないところがある(その理由は後で述べる)。そこで、この当たり前のことをできるだけ難しく、納得いくまで考えてみようというわけである。

※紙は、第一義的には「文字を書く」ための素材である。この意味では、紙を折ることは、紙にとっては副次的な意味合いしか無い。けれども、私のこの議論では、折ることの方だけに集中して話をすすめる。ただ、紙には「色をつけやすい」というもう一つのすぐれた特性がある。これは元々、紙が文字を書くための素材だったことと深い関係がある。折り紙の立場から言えば、「色・紙(いろがみ)」という形で、作品に多様な色彩を与えてくれるという別の特徴があり、これも大切だ。でも、ここでは「折る」ことの方に集中する。

「紙の折りやすさ」とは何か?先ず、我々がしている「折る」という行為をよく考えてみる。「折る」行為は、大きく二つの工程に分けられる。先ず、「曲げる(湾曲させる)」工程、次に、「折りすじを付ける」工程である。紙はこの両方の工程に対して優れた素材であることを、確認しようというわけである。逆に言えば、両工程において適していなければ、折り紙的な意味で「折る」ことはできない=折り紙の素材にならない、ということだ。

曲げることのできるシート状の素材は、世の中に多くある。紙以外に、金属シート・プラスチック・ビニール・木などは、ある程度薄ければ曲げることができる。「曲げやすさ」というのは、厚さをコントロールすることで調節ができる(つまり、曲げやすさは素材に固有の性質ではない、ということ)。厚い金属板は万力がないと曲げられないが、金属箔は容易に指で曲げられる。木だって、「かんな屑」くらい薄ければ、指で曲げられる。

しかし、紙以外のこれらの素材が折り紙に適していないのは、明らかだろう。素材の「曲げやすさ」というのは「折れる」ことの大前提ではあっても、意外と「急所」ではないのだ。「柔らかさ」と言うとき、この「曲げやすさ」のことを漠然と意味している感じがする。私が「柔らかさ」に納得のいかない理由は、ここにある。「柔らかい」だけでは足りないぞ、と。

「急所」は、第二工程の「折りすじの付けやすさ」の方にあるのではないか、と思う。しかし、これは注意深く考える必要がある。人間の指にとっての「折りすじの付けやすさ」は、素材自体の物性としての「折りすじの付きやすさ」とは同じではない。「ずれて」いる。むしろ、反対のところがある。何故か?

指が「折りすじを付ける」とき、先ず、紙を曲げる(湾曲させる)。曲げた後、紙の端と端を合わせたりして、曲げ位置を調整する。「きちんと」折るためである。この「曲げ位置の調整」ということが、折り紙には避けて通れない非常に大事なポイントなのだ。「きちんと」折らないような折り紙は存在しないからだ。そして最後に、指で押えて「折りすじ」を付ける。注意すべきことは、位置の調整の段階では「折りすじ」が付いてもらっては困るのである。「折りすじ」は、指で押えて「決める」最後の段階で、初めて付いてほしい。

非常に「折りすじの付きやすい」素材だと、曲げ位置の調整の段階で折りすじがついてしまう。台所用のアルミホイルで折ってみると分かるが、非常に折りにくい。これは、あまりにも折りすじが付きやすくて、曲げ位置の調整をする余裕が無いためだ。比喩的に「腰が無い」と言い表す状況だ。

物性的に「折りすじのつきやすい」素材は、指にとっての「折りすじの付けやすい」素材にはならない。むしろ、曲げに対して抵抗し、最後まで折りすじが付かなく「頑張る」(「腰がある」)素材が「折りやすい」のである。そういう「腰のある」素材は、曲げ位置の調整の後に、折り線を「決める」ことができる。こうして初めて「きちんと折る」ことができる。

もちろん、ビニールのように極めて「折りすじの付きにくい」素材は、いくら曲げやすくても、全く適さない。そもそも、折りすじを付けること自体が難しいから、折り紙そのものが成り立たない。

こう考えると、紙に指で「折りすじをつけやすい」のは、適度に「折りすじがつきにくく」、折り線を「決める」ことができるためだと分かる。この「ぎりぎりのところで初めて折りすじがつく」という性質は、紙に固有にそなわった物性であり、他の素材では(厚さを変えること等をしても)達成できない。紙の「折りすじの付けやすさ」の急所、ひいては、「折りやすさそのもの」の急所、に思える。

余談だが、人間は、折りやすい素材としての紙に出会って、折り紙を始めたのだと思う。紙の発明(中国)から始まって、世界への伝播と共に、折り紙が広がっていき、東は日本、西はアラビヤからスペインで盛んになったという歴史は、折り紙が紙といかに密接にむすびついているかを象徴している。興味深いことである。

最後に、結論。『紙が折りやすいのは、「柔らかい」からではない、「腰がある」からである。』


トップへ

 折鶴の解剖(折鶴の人気の秘密に迫ってみる)

今さら折鶴か、といぶかる人もいるだろう。でも、折鶴ほど人気のある折り紙作品はないだろうと思う。だから一度、折鶴を真正面から論じてみるのは価値があるはずだ。その秘密を、どこまでむずかしく考えることができるか、挑戦してみたい。

先ず、折鶴がどれくらい折られているか、おおまかに計算してみる。私は、今の日本人なら、少なくとも一生のうちに一回は折鶴を折ったことがあるだろう、と思っている。とすると、一年間の出生数はほぼ200万人らしい(最近は100万人にまで減少)から、明治以降約120年で約2億人が生まれたことになる。それらの人々が1羽ずつ折鶴を折ったとして、2億羽だ。江戸時代を考える合わせると、もう少し多くなると思うから、3億羽くらいとしておこうか。ひとつの作品が3億回くらい折られるというのだから、折り紙人気ランキングは折鶴が断然トップだろうな。

折鶴は、また、千羽鶴という形でも、日夜、作られ続けている。これはたいへんな事である。この只ならぬ数を前にして、折り紙愛好家として、その人気の秘密を解き明かしてみたいと思うわけである。

折鶴の人気をここで、折る工程と折りあがりの形の二つの側面から考えてみることにする。(是非とも、自分が折鶴を折っている感覚を思い出しながら、読んでいただきたい。)

折り工程の面からは、折りが多様で、難しさも丁度いい、ということがある。いろいろな技術が含まれていて、難しさがあるのだが、少しの練習で折れるようになるのが、気持ちいいのである。

技術的には、先ず、花弁折りが登場する。これはそれなりに難しい折り方なのだが、花弁折りというのは、折る過程に、ある種の快感を伴う折り方だと思っている。

正方形を半分に折って直角三角形にした後、開きつぶしてまた正方形にする。正方形→三角形→つぶして再び正方形。正方形から、行って帰ると正方形が2個である。これは小さな「驚き」でさえある。これが表裏2回つづく。最初の快感だ。第一のリズム。

次に、三角の折りすじをつけた後、指を入れて開いて縁をたたむのだが、この工程がまたすごくリズムがいいのである。一旦、立体的な中間的状態を経て、たたみ終えたときにまた平面に戻るという「意外性」「ドラマ」がある。そして、端のたたみ込みが完成したとき、左右の端が中心でぴたりと合う。折りすじ→開く→不安定な中間状態→端正な平面への回帰。見事な「起承転結」ではないか。これが表裏2回つづく。

花弁折りを全体としてながめると、ドラマが2回あり、1回目よりも2回目のドラマが大きいという構成になっている。なんとも、シナリオが自然なのである。

難しい工程はここで終わって、花弁折りの直後は、首と尾・脚を作るために、片方の花弁を二つ折りにして細くするという、比較的単純な作業だ。この工程の効果は、完成形において実は絶大だ。折りすじは羽になるもう一方の花弁の根元まで至り、完成時には羽と胴体部分をしっかりさせるという重要な働きをする。しかし、折り手はこの段階ではそこまでは気づかず、単純な「二つに折る」作業を実行するだけだ。これは、気持ちの上では、ドラマの後の「小休止」といった位置づけになろう。

その次は、これまた「折り紙的」な「中割り折り」である。直前に行なった二つ折りの結果として厚くなった、首・尾の根元を折ることで、首・尾を大胆に羽の側に持っていく。これはある種の「力わざ」であり、花弁折り段階での技術の勝った折りとは、一味ちがった工程になっている。小休止の後に、味わいの大きく違った工程が来るところが、何ともいえず上手い。

最後のクライマックスは、羽を広げつつ胴を膨らませる工程。折り紙以外ではもちろんのこと、折り紙の中でもまれにしか登場しない、独特の工程である。これまでの折りによって準備はできているものの、閉じた形で待っていた羽が、ここで一気に開花して、飛翔する鳥の形に結晶するのだ。蛹から蝶への羽化にも例えられよう。視覚的にも見事だし、紙から指に伝わってくる感触もまた独特である。ドラマが完結した、と自然に思える手ごたえがある。

頭をつける最終工程は、それまでのドラマの余韻の中で、それぞれの思いで自分の気に入った表情をつけていくという、楽しみを与えてくれる。自分で折りを完成した人だけが持つ達成感を味わいながら、表情をつける楽しい作業によって「折鶴」をしめくくるのである。

全体をもう一度眺めると、小ドラマ→大ドラマ→小休止→力技→クライマックス(羽化)→余韻というふうに、実に自然で効果的な「シナリオ」になっている。私は、これが、折鶴の折り工程の「充実感」だと思う。

では、最終的にできあがる形はどうだろうか。当たり前のように見ている折鶴だが、よく見ると、実に不思議な形をしている。具象的であると同時に、抽象的でなのである。

羽と首・頭部はよいとして、後ろ上方に向かうもう一本の突起物は、尾なのかか足なのかはっきりしない。多分、両方をまとめて象徴化したものに見える。鶴の尾はとがってもいないし、細長くもない。脚は長く細いが、飛ぶときに上方を向いたりはしない。それでも鶴の飛翔形として自然に見えるのは、「飛ぶ」ということが重力に打ち勝つことであるために、上方を向くことが自然に思える、という感覚が働くためではないかと思う。また、首との前後対称性という、デザイン的な美に引きずられる面もある。とにかく、単純だけれども、鳥の飛翔形として、具象的・象徴的に雄弁であり、説得力のある形を持っていると言っていいだろう。

以上のように、折鶴の形を考えてみたが、ある意味で常識的なことに終始したかもしれない。つまり、すでに論じ尽くされていることをなぞっただけのことかもしれない、とも思う。そこで、私はここでもう一点、形について別の視点で考えてみたいと思う。それは、「形の自己完結性」というような視点である。

折鶴を見ていて気づいたのは、紙の端がどこにも露出していない、ということである。つまり、紙の端は全て折り込まれており、羽や首などの辺は、全て紙の折れ目で出来上がっている。このような構造は、私の目には、自己完結しようとする形、として映る。紙の端が露出する作品に比べて、エネルギーがなにか内部に凝縮するような、閉じた印象を受ける。その印象は、折鶴の形が非常に固定されていることで、さらに強くなる。

形が固定される原因は、紙を挟みこむなどの形で「ロック」されているためではない。上の折り工程のところでも述べたが、先ず、花弁の二つ折りによって首・尾を作るときに、羽の根元も部分的に二つ折りになっていることが大きい。それによって、中割り折りの後で、胴の下部がしっかりする。しかも、最後の胴をふくらませ羽を開く過程では、ふくらんだ胴によって羽が固定される、という形になっている。

「ロックしない」固定による効果は、形がしっかりしているのに、全体的に放射状の形を取り得る、というところに現れる。

このような折りの工夫の結果、折鶴は、形の自己完結性と、力学的強度と、飛翔形体とが三位一体で実現するという、稀有な作品になっていると言ってよい。この点を完成形の特徴として付け加えたい。

さて、折鶴の秘密への私の挑戦も、ようやく終わりに近づいた。結論を言うと、折鶴は、折り工程における巧みな「リズム感」「ドラマ性」と、完成形のもつ優れた形体的特質とが一体となった、稀な傑作である。

折る過程の楽しさと、折り上がりの美しさ。これらは、場合によっては(というより、多くの場合に)相矛盾するものである。両者を同時に備える作品は、「工芸的遊び」としての「折り紙」の傑作と呼ぶにふさわしいものと言えるだろう。これこそが、折鶴の人気の秘密である。


トップへ

 


『おりがみ広場』 ホームへ